43 愛憎ロマンス/アズカバンの囚人

朝、あまりにも寝起きが良かったので、きっとあの後熟睡できたのだろう。歯を磨き、服に着替え紅茶を飲みながらぼーっとしていると、ふと気配を感じて振り返る。ああ、昨日のは夢ではなかったんだ。名前は先ほど壁を通り抜け、この部屋に現れた人物に向かって微笑む。今日はマグル学の授業がない日なので、いつもよりもちょっぴり遅めの朝を迎えた。

「おはよう、先生」
「おはよう、トム」

彼はトム・マールヴォロ・リドルが16歳のときの記憶であり、ヴォルデモート卿になるため不要になった記憶でもある。彼の媒体は白い日記帳で、今マグル学教室の隣にある部屋に保管されている。かつて恋した相手と一緒に入られることはとても幸せだが、アルバスの思惑については、名前はまだ見当もついていなかった。彼以外に、トムだけが、アルバス・ダンブルドアの恐ろしさと、その思惑に気がつていた。その時が来たら、優しいこのひとは一体どう思うだろうか。

ちなみに、16歳のトムは実体化している間、名前の魔力を食ってしまう為、極力実体化しないつもりでいるようだ。別のトムに魔力をギリギリまで搾り取られてから、魔力をある程度回復できるまでは、そうしていただけると有り難かった。あの悪夢のような日からしばらく経ったとはいえ、名前の膨大な魔力のタンクを満たすにはまだまだ時間がかかるためだ。人よりも魔力が溜まりやすいので、成人の魔法使いが平均的に有する魔力量は既に回復していたが、貯蔵できる魔力が多い分、名前は人よりも多くの魔力を消費する。生きるために魔力を消費する魔法生物でもあるので、まだ気軽に魔法を使えるだけの魔力は貯蓄できていなかった。
すぐ近くのソファに腰を下ろすと、いつぞやの日刊預言者新聞をローテーブルの引き出しから取り出す。シリウス・ブラックの脱獄について、彼に意見を聞こうと思ったからだ。

「…君の手助けが必要なんだ、トム」
「先生のために僕が役立てるのならば何でも」

囁くように言うと、まるで物語の王子様かのように名前の手を取り、そこに唇と落とした。あまりにもまっすぐにこちらを見つめてくるものだから、彼の目を見ることができなくなった。まるで年頃の少女のような反応をする己自身に、思わず苦笑する。ほっぺたからは火が吹きそうなくらい、気恥ずかしかった。そんな名前の様子を楽しんでいたトムが、その整った唇からクスクスと笑い声を漏らす。

「先生ってそういうところがウブだよね」
「うっ…あまり年寄りをいじめないでくれ…」
「どんなに年を重ねても、先生は僕の大好きな先生だ」
「…トムっ、私が言いたいことはそういうことじゃなくて」

手のひらをわざと中指でなで上げられ、妙な声が漏れそうになった。

「相変わらず敏感だね……先生は」
「トム!」
「ふふふ、そうだね、わかってるってば、ごめんなさい」

先生の可愛さは昔から何一つ変わらないね。そう囁かれるとついに名前は恥ずかしさのあまり、窓際のカーテンに包まった。

「……トム、その、君と触れ合うのは久しぶりというか……なんというか……その」

アラクネの子は、快楽に弱い。そういうふうに身体を作り変えられているので仕方がない。そもそも、アラクネが魔力をアラクネの子から吸い取る方法が性行為なのでどうにもならない。この忌まわしい体質には長年悩まされ続けている。しかし、残念なことに解決方法はなかった。

「先生かわいい」
「……っ!」

カーテンを剥かれ、腰を抱かれるとそのままの体制で優しい口づけが唇に落ちてきた。”悪意”のない、優しい触れ合いに、心が溶かされる思いだ。
この16歳のトムからは”愛情”を感じる。相手を愛し、大切にしよう…そういう思いやりの気持ちを感じる。トム・マールヴォロ・リドルは、ヴォルデモート卿になるため、この白い日記帳の中に、“名前・ナイトリーを愛していた16歳のトム”の他に、”優しさ”も封じてしまったようだ。
その頃からあの子は変わってしまった…今ならば、それがよく分かる。だから、あんなにも酷い仕打ちができたのかもしれない。ふと苦い記憶を思い出しそうになり、名前は話を本題に戻す。

「ーーーシリウス・ブラックがアズカバンを脱獄した…彼は、ヴォルデモート卿の腹心だったと世間では言われている…ハリーポッターを殺すために、アズカバンを脱獄した…と、言われているが私は違うと思っているんだ」

トム・マールヴォロ・リドルの一部である”彼”にこのことを話すのは、かなりのリスクを負う。しかし、問いかけてみることにしたのだ。

『これをどう扱うか君ならばすぐに分かる。』

あの日、アルバスから手渡された白い日記帳……ヴォルデモート卿にとって不要のものが閉じ込められた魔力の媒体…魂の片割れ。それを手渡された意味、そして与えられた使命。
トム・マールヴォロ・リドルならば、どういうふうに考えるのかを。隠された真実を明かすためにも、彼を”利用”しなければならない。
真剣な話になったということに気がついたのか、名前の腰を抱いた状態のまま、ソファに腰をおろす。そのまま引っ張られ、名前はトムの胸の上にもたれかかる体制となった。流石にこのままでは話しづらいので、体制を整え、ちゃんとソファに座るとトムは少し残念そうな表情を浮かべた。

「シリウス・ブラック?へぇ、ブラック家の……彼はどういう性格の人物なの?」

「彼は……そうだな、不器用だったけれども、とても優しい子だったよ。彼はブラック家の長男だったんだけれども、純血至上主義だった彼の家族と仲がどうしても悪くて、彼が16歳のときに家出をしたんだ、親友であるジェームズ・ポッターの家に……ハリーのお父さんの家さ」

ポッター家もかなりの資産家だったし、昔からある魔法使いの家だったので、屋敷もかなり大きかったと思う。客人が一人増えようとも部屋が35部屋も余っているのだから、なんら影響はないだろう。ちなみに魔法で何に使うのかよくわからない部屋みたいなのがたくさんあったのを、今でも覚えている。

「彼らは仲がとてもよかったから、仲違いしたとも思えない」

シリウスはホグワーツ卒業後、不死鳥の騎士団となり、闇の魔法使いたちからポッター家を守っていた戦士の一人だというのに。彼が絶対に、ハリーを殺すなんてありえないことなのだ。おまけに、シリウスは自分の家を嫌い、ブラック家から勘当されている。そんな彼が、ヴォルデモート卿の腹心のはずがない。当時のことを事細かに説明すると、トムは興味深そうに耳を傾けている。

「もし、誰かにシリウスが嵌められていたとしたら…」
「他に裏切り者がいる、と?」
「…可能性がないともいえない」

信じたくはないけれども。声が小さくなっていく名前に、トムは小さく笑う。
当時の不死鳥の騎士団の中に、裏切り者がいたということになる。シリウスではない、他の誰か。しかし、誰だ?こんな疑念を向けることすら、名前にとっては心苦しいものではあるのだが、それを察していてか、トムは優しく微笑む。

「ほんっとに、お人好しだなぁ先生は…」
「わ…わかってるんだ、そんなこと…」
「だけど、僕はそんな先生が愛おしいよ…さて、先生の疑問だけど、十中八九、親しかったほかの誰かが裏切ったと思うよ」
「……」
「僕が言うのも何だけど、気の弱いやつを唆すのは簡単さ」
「…それは、どういう…」
「先生も…別の僕に騙されたことがあるだろう、つまり、そういうことさ」
「ーーーもしかして」

彼らの中で、気の弱い子は……一人いた。だが、もう亡くなっているとも言われている。しかし、彼の消え方はとても不自然で……。

「まさか、彼が」
「それは本人に会って直接聞かないとわからないよ、だけど、可能性としては高いんじゃないかな、“僕”ならば、そういう気の弱い奴を狙う。そいつが裏切るように仕向けるね…それが一番簡単だから」

ヴォルデモート卿本人ではないが、もとは同じ魂である彼が言うのだから、間違いなさそうだ。長年感じていた違和感が、すっと消えていくような気がする。だが、気の弱い彼が、本当にあのシリウス・ブラックを陥れることなんてできるのだろうか。再び悩んでいると、考えが伝わってしまったのか、あるいは察したのかトムが答えを導き出してくれた。

「ーーー命がかかっていたとしたら、それは従うほかないよね」
「……そうか、彼は脅されていたのか…そして…自分の保身のために…」

どちらも被害者だ。だが、この憶測が正しいとなれば、彼はもう被害者であり、加害者でもある。関係のない、なんの罪もないマグルたちも巻き込んだのだから。

「どうしたら、シリウスを救えるだろうか」
「…さぁ、僕は先生以外どうでもいいから…でも、そうだね、先生が望むのであれば、僕に”力”を頂戴」

トムに指を絡め取られる。触れる指先が熱い。性的な意図を感じる触り方に、名前は躰が熱くなるのを感じた。

「僕に“力”があれば、先生の手助けをすることだってできる…だけど、先生は今、魔力を“あいつ”に抜き取られてからそんなに経っていないから、僕に取られたら暫く体調が悪くなるかもしれない」

自分自身の、別の記憶が行ったことだというのに、その言葉は殺意を含んでおり、名前は不思議な気持ちになった。彼は、自分自身が敵なのか、と。

「…構わないよ、君ならば」

16歳の記憶である君ならば、同じ思いを持つ君であるならば。名前はまっすぐとトムを見つめ返し、熱のこもった視線を交わす。

「だが…まだ朝だから…その…」
「もちろん、今すぐに、じゃないよーーーもしかして、今すると思った?」

また、トムにからかわれた。それがわかり名前は顔をトマトよりも真っ赤にさせた。あまりの恥ずかしさにその場から消えて居なくなってしまいたい。それを許さないトムの腕ががっしりと名前を捕らえて離さない。尻を撫でられ危うくそちらのスイッチが入りかけそうになったが、タイミングよく部屋にフクロウが手紙を持ってきてくれたので、朝からおかしなことにはならなかった。フクロウに向かって、トムが舌打ちをしていたような気がする。

午後、事務仕事を終えた名前は禁じられた森にやってきていた。アラゴグの軟膏を届けるのも、今年に入ってもう数え切れいないほどだ。以前ならば時々で問題なかったが、彼も老いたので節々が痛んで会うたびにつらそうにしている。

「アラゴグ、久しぶりだね」
「久しいな…アラクネの子よ…また軟膏を塗っておくれ」
「もちろんさ、最近の調子はどうだい」

アラゴグが木に体をもたれかけるのを確認すると、名前は魔法のかばんから魔法生物用の軟膏を取り出し、それを手に取る。

「…わしらは相変わらずだ。ハグリッドが連れてきたあのヒッポグリフは殺されるのか」

アラゴグのいう、ヒッポグリフとはバックビークのことだ。授業の際、ドラコ・マルフォイが結果的にヒッポグリフに襲われる事となってしまったために、大怪我を負った。そのため、彼の父親であるルシウス・マルフォイは裁判を起こし、ハグリッドを裁くつもりでいるようだ。それを知らされたのはつい最近で、ルビウスが夜な夜なバックビークを助けるために色々と動いているようだが、相手が悪すぎる。

「さぁわからない…だけど、助けられるのならば助けたいな、とは思うよ」

裁判直前にバックビークを助けるために逃しでもしたら、ルビウスがどうなることやら。半巨人とはいえ、純粋な人間以外には結構厳しい世界だったりもするので、彼は最悪ホグワーツを追放されてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けなければ。

「…さて、こんなところかな?じゃあまた来るよ」
「おお、ありがとう…助かった…アラクネの子よ、また来ておくれ」

子蜘蛛たちに途中まで見送ってもらい、アラゴグたちと別れると名前は森を出て、ホグワーツ城の廊下を歩く。すると、偶然ハリーたちと遭遇した。シリウス・ブラックがグリフィンドール寮を襲撃してからというもの、傷だらけの太った婦人の肖像画を修繕するため、代理としてカドガン卿がグリフィンドール寮の扉に掛けられているそうだ。彼はホグワーツにいる肖像画の中でも血の気の盛んな方で、誰彼構わず決闘を挑んだり、複雑な合言葉を少なくとも一日2回も変える為か、生徒からはとても不人気だった。今日は珍しくパーシー・ウィーズリーがハリーのそばに居なかった。あの襲撃事件以来、ロンの兄、パーシーがハリーを心配し、これからどこへ行くのかと聞いたり次の教室へ移動する時一緒に着いていったりと、事あるごとにハリーを気にかけているそうだ。

「やあ、元気かいハリー、ロン、ハーマイオニー」
「先生と会うの、なんだか久しぶりな気がする」
「あら、そうかしら?」
「僕たちはマグル学取れなかったから…」

ハリー、ロンはマグル学を受講できなかったのでこの中ではマグル学を受講しているのはハーマイオニーだけになる。彼らはそれを僻んでいた。仲のいい優しい先生の面白い授業を受けたいと思っていたのだが、マグル学の教室は狭く、授業に参加できる人数も限られている。さらに、年頃の女子生徒が多く受講する為か、競争率も高く、さらにさらに、女の子を目当てに思春期真っ只中の男子たちも負けじと申し込みをした。そのため、もともと狭き門だったところが、激戦区となったわけだ。

「クィディッチは来週かな?頑張ってねハリー」
「ありがとう先生…あー、その、先生って学生の頃のシリウス・ブラックをご存知ですか?」
「…あぁ、知っているよ」

まさかここでシリウスの話が出てくるとは思ってもいなかった。リーマスがハリーに学生時代の話をちらりとしたことを聞いていたので、どこかでは聞かれるのかとわかってはいたが…。名前は慎重に言葉を選んだ。

「“彼ら”の学生時代は…それはもう大変だったよ」

教師的な意味でね、と苦笑を漏らす。

「どの先生たちも、双子のウィーズリーよりも手を焼いていた」

だけど、とても優秀な生徒たちだった。そして仲が良くて…特に、シリウスとジェームズは実の兄弟のように仲が良かったと当時は感じていた程。だから、あの事件はとても衝撃的だった。

「ハリー、君の見た目はジェームズの生き写しだけれども、勇気とか、そういうのはリリー譲りなのかもしれないね」

正義感が強くて、誰よりも勇気があったのはリリーだ。そして、結果命がけでハリーを守った。

「ハリーのお母さんって、どんな方だったんですか?」

と、ここでハーマイオニーからの質問がやってきた。彼女の純粋にハリーの母親に興味があるのだろう。

「リリーはとても優秀な魔女だった…まるで、そう、ハーマイオニーのように正義感が強くて、勉強熱心な子だったよ」

自分のことが出てくるとは思わず、頬を赤らめ少し恥ずかしそうにしながらも、先生に褒められてハーマイオニーはとてもうれしそうだ。

「ちなみに、学年は違うけれどもアーサーやモリーの学生時代もとても優秀な生徒だったさ、深夜のデートには驚かされたけどね」
「え!?」
「まぁ!」
「へえ…そうなんだ…学生時代そんなことがあったんだ…」

息子であるロンも、このことを知らなかったようだ。ただ、両親のそういった話題はあまり興味がないのか、それとも気まずいのかすぐさま別の話に変えた。

「先生、ルーピン先生って体が弱いの?」
「どうしてだい?」

ロンからの突然の質問に名前は内心ぎくりとしながらも、平素を装いながら言葉を返す。

「今日、ルーピン先生が授業を休まれていて…それで、その…スネイプ先生が…」
「スネイプ先生が酷いんです、まだ僕たち、習っていないのに、狼人間なんか勉強させられて」
「次習う内容と違うことをハーマイオニーが指摘したのに、減点しやがったんだ!」

3人の言葉に、名前は小さくため息を漏らす。これは、悪意のある教え方だな、と感じた。どうしてこんなタイミングで狼人間について学ばせたのか…それはリーマスが人狼だからだろう。頭のいい生徒ならば、感づいてしまうのではないかと思う。いや、むしろ彼はそれを狙っているのかもしれない。ああそう、一つ思い出した。きっと、以前の授業でボガードがセブルスに化けて出てきたから、若干仕返しのつもりなのかもしれない。彼は学生時代の遺恨をまだ引っ張っているのだろう…。
ルーピン先生は元気だから心配しないで、と3人には伝えてはおいたが、聡明なハーマイオニーならば、もしかしたらセブルスの意図に気がついてしまうかもしれない。

リーマスが狼人間だとバレてしまったら、きっとホグワーツを出なければならなくなってしまうだろう。……いや、これは、明日は我が身だと思って居なければならない案件だ。コツ、コツと長い廊下を歩きながら内心、独り言つ。

次の週、大事件が起きた。クィディッチでの試合でディメンターたちが無断でホグワーツに侵入し、さらにクィディッチで戦っていた生徒を襲うなどというあるまじき事態が発生してしまった。その襲われた生徒というのがハリーだ。アルバスのお陰でハリーはほぼ無傷だが、それは表面上だけだ。なんとかアルバスの魔法で地面に突撃は避けられたが、彼の乗っていた箒が粉々に粉砕してしまった。生き延びれただけ幸運ではあるが、生まれて始めて手に入れた思い入れのある箒とのお別れが、こんな事になってしまうとは相当ショックだったに違いない。さらに、ディメンターとの接触は、深い悲しみを負うハリーにとっては致命傷になりかねない。

「かなり上空にいたからね……久しぶりに箒に乗ったけど……アイタタ」
「もう、年なんですから無茶しないでくださいよ、ですが、ディメンターたちを追い払ってくださってありがとうございます」

今、名前は医務室に来ていた。マダムに腰の周りを包帯でぐるぐる巻きにされながら苦笑する。ちなみに、これは単なるむち打ちだ。あの時、ディメンターたちがクィディッチの試合が行われている場所に無断で近づいたことに誰よりも早く気がついたのは、名前だった。彼らの天敵でもある名前にとって、彼らの気配は手にとるようにわかる。それに気がついた時、名前は慌ててコートに降り、予備の箒を借りて上空まで慌てて飛んでいった。ハリーに”キス”をしようとしていたところを、間一髪のところで彼らを追い払う事に成功した。気絶した人を抱えて空を飛ぶのは、いくら熟練のクィディッチ選手でもかなりの危険が伴う。ましてや名前は箒に関してはそこまで得意ではない。空を飛ぶ前、とっさにアルバスに落下してくるであろう生徒のことを頼んだのは賢明な判断だったと思う。

「ハリーは今眠っていますか?」
「えぇ、他の生徒たちが医務室の前でソワソワしているので、よろしく頼みますよ」

気がつけば手当は終わっていて、マダムから新たな仕事を頼まれてしまった。ここは医務室なので、他にも具合が悪くて眠っている生徒がいる。早く静かにしてもらわなくては、防音呪文を使うことになるだろう。マダムに言われ、名前はズキズキと痛む腰を持ち上げる。医務室の扉を開くと、グリフィンドール生たちが心配そうに駆け寄ってきた。

「先生!ハリーは無事ですか!?」
「ああ、大丈夫だよハーマイオニー、彼は無事さ。骨の一つも折れてない。ただ、今はちょっと休む必要があるから、君たちは先に寮に戻っていなさい」

そう云うと、ハリーの友人たちは渋々戻っていった。しばらくして、ハリーが目覚めたことを知らされた生徒達は一斉に医務室に駆け込んできた。そんな彼らの姿を微笑ましく見つめながら、禁じられた森の中へと入っていく。大切な仕事であるディメンターの監視を強化すべく、見回るためだ。城の直ぐ側ではディメンターたちも近寄ることができないが、今回のように城からかなり離れた上空や、森の中ならば話は別だ。この森には多くの魔法生物が暮らしているので、ディメンターたちが潜んでいてもおかしくはない。森の入口を進んでいくと、カサカサ、となにかの足音が聞こえてきた。アラゴグの子どもたちの足音だ。

「……やあ、アラゴグは元気かい?」

音のようなものは聞こえないが、魔蜘蛛同士だけがわかる意思のようなものが頭の中に入ってくる。いくら魔法生物の中でも知能が高いアクロマンチュラとはいえ、その能力には個体差がある。月日を重ね、魔力の高いアクロマンチュラだけが直接的に言葉を話すことができる。幼いアクロマンチュラでは、同族間でしか意思の疎通はできない。しかし、名前はアクロマンチュラの仲間のようなもの。だから彼らの言葉を“頭”で理解することができる。

彼らが言うには、アラゴグは体調を崩して森の奥で臥せっているらしい。道理で、ディメンターたちが城に近づいてきたわけだ。ディメンターたちの天敵は、魔蜘蛛。アラクネの子である名前の他に、アクロマンチュラのアラゴグもそのひとりだ。アラゴグの子どもたちはまだ幼いため、それほど高い魔力を有していないことから、ディメンター避けにはならない。魔蜘蛛といえども、名前やアラゴグのように特別で、魔力の高い魔蜘蛛でないと、ディメンターには効果がないのだ。

「そうか、アラゴグはあの日からさらに体調を崩してしまったのか……教えてくれてありがとう、体調が悪いのであれば、そちらに出向かないほうがいいだろうね、気を使ってしまうだろうから……なら、これを彼に」

ローブのポケットから、黒い泥団子のようなものを子蜘蛛に手渡す。彼らはそれを受け取ると、自分たちの巣穴へと帰っていった。あれはアラゴグの薬だ。魔法薬があまり得意とは言えなかったが、あれだけはちゃんと作ることができる。一定の魔法生物にとっては薬となり、その他の魔法生物には毒となるものではあるが、人間には害のない不思議な魔法薬だった。ちなみに巨人族の血が入っているルビウスは、これに触れると肌が爛れてしまうので、アラゴグがこの森に放たれてからは、彼のために薬を作り手渡す役目はいつも名前だった。

「ん?……野犬?」

1時間半ほど森をくまなくパトロールし、森を出ようとした時、何かの気配を感じて振り向く。目を細めると、奥の方に黒い影が見えた。その影はしっぽをピンと立たせ、こちらを警戒しながら見つめていた。よく見れば、ずいぶんと見窄らしい姿をしている。毛並みも悪く、ガリガリに痩せこけていた。そういえば、一昨日、ルビウスからもらっていたお土産のビーフジャーキーがまだローブのポケットの中に入ったままだったような気がする。名前が身につけているローブのポケットには魔法が施されていて、トートバッグ程度の容量が入るようにしてある。そのため、ポケットの中にものを入れっぱなしで洗濯をしてしまったときは、それはもう大変なことになる。

「君が好むかはわからないけれども……ほら、怖くないよ」

ビーフジャーキーを差し出すと、遠巻きから黒い野犬がクンクンと鼻を鳴らす。流石に空腹だったのか、野犬は警戒を解き、一目散にビーフジャーキーにかぶりついた。

「うんうん、よかった、それならば、これは全部君にあげるよ」

無我夢中でジャーキーにかぶりついている野犬のすぐとなりにジャーキーを置くと、黒い犬は横に置かれたジャーキーも一緒に咥え、森の中へと消えていった。
その背中を見送ると、名前は顎に手を当て、もしや、と呟く。
影を見て、まさか……とは思った。彼らが未登録のアニメーガスであることは、アルバスから聞かされている。そして、シリウスが、黒い犬のアニメーガスであることも。

「そうか、アニメーガス……」

まさか、彼はシリウス・ブラックではないだろうか。かなりボロボロの毛並みだったので、人の姿も相当悪い状態に違いない。
彼らがアニメーガスになる理由は、親友のリーマスのためだった。学生の頃、満月のたびに人狼化で苦しめられていたリーマスと一緒に過ごせるよう彼らが導き出した答えでもある。そのアニメーガスは、本来ならばきちんと魔法省に届け出を出し、登録しなければならない。しかし、正体がバレると都合の悪い魔法使いたちが一定数存在していて、アニメーガス登録をしない者も少なくはない。

「もしかして……」

シリウスが無罪だと信じている名前は、シリウスをなんとか保護してあげたかった。しかし、それには証拠がどうしても必要だ。彼が無罪である証拠が。彼らを昔からよく知るアルバスも、シリウスが犯人だとは今も思っていない。しかしあの時、シリウスしか現場にはいなかった。そのため、彼が罪を被ることになったのだが……。色々と立て込んでいたのもあるが、証拠がなく、シリウスを無罪にすることができなかった。何しろ、秘密の守人でもあり、当時、彼の無罪を信じてくれるものは少なかった。ましてやあの”ブラック家”の長男だ。ブラック家といえば、純血の家系でかなり古い血筋の者たちで、聖28一族でもある。ヴォルデモートのしもべでもある、死喰い人もいた。その中でシリウスはヴォルデモートに敵対していた不死鳥の騎士団に所属していて、秘密の守り人でもあった。だから、疑われてしまうのも仕方のないことだった。

確認したいことができ、名前は慌ててマグル学の教室の隣にある、小さな書斎へと駆ける。扉を慌てて開くと、足元に転がっていた本につま先がぶつかり、勢いよくカーペットにダイブしてしまった。

「いたた……」
「まったく、先生ってそういうところがあるよね」
「あ、トム、ナイスタイミング、君に聞きたいことがあったんだ」

この部屋は、昔から名前が魔法をかけ続けている部屋なので、白い日記帳のトムに直接魔力を注がなくても、普通に実体化し、過ごせるだけの魔力が満ちている。少し擦りむけてしまった名前の鼻を、トムが優しくなで上げた。

「どうしたの?そんなに慌てて」

これでは、どちらが教師なのかわからない。肩を支えられながらすぐ近くの椅子に腰を下ろすと、ため息が漏れた。もちろん、自分の間抜けさに対してだ。やっぱり、もう年なのかもしれない。

「アニメ―ガスに変身しても、その人の特徴は変わらなかったよね?」
「そうだね……足がなければ足のない生き物になっていたと思う」
「やっぱり……そうか、しかし、指が1本ないネズミを探すなんて、あまりにも無謀かな……指のないネズミなんて、たくさんいそうだ……」
「指のないネズミを探してどうしたいの?」
「あの夜、シリウスは誰と一緒にいたか……ピーター・ペティグリュー。彼はネズミのアニメ―ガスだ、そして彼が最後、指一本だけを残して消えた……」

ピーターがもし、ヴォルデモートに脅されて、何らかの情報を漏らしたとしたら?彼はとても気弱で、いつもジェームズたちの後ろを歩いているような子供だった。友達だというのに、少し距離をおいていたような気もする。まだ犯人と決まった訳では無いが、十分に疑わしい。しかし、勝手に決めつけるわけにもいかない。何しろ確かな証拠が集まっていない。これは難航しそうだ。

「森に、シリウスかもしれない犬がいたんだ、彼に食事を届けようと思う」
「ブラック家の長男はアニメ―ガスなんだね、でも、そいつが本当に、ポッターを罠に嵌めていたら?」
「……いや、私は、彼を信じるよ」
「……さぁ、僕は何をすればいいかな?」

仲間として彼が加わっているだけで、こんなにも心強いなんて。
そして名前は、トムに作戦を伝えた。この作戦は、一人だけではなし得ないものだから。仲間であるアルバスにも、この件を報告しなくては。