遡ること、アルバスに衝撃的な事実を知らされたあの日。名前はいつものように夜7時頃に目覚め、溜まっているホグワーツ宛の手紙に返事を書いていた。魔法省から届く事務的な手紙に、テンプレート通りに返事をするだけの簡単な仕事だ。
この知らせが来るまで、名前はあの子がこの世から滅んだものだとばかり信じていた。戦いが終わったあの日、アルバスにもしかしたら、と言われてはいたが確信が無く、預言者新聞に書かれた通り名前はあの子の消滅にほっとしていた。結局逃げ続けていたが、逃げたままで事がすべて終わったのだ、と。
「ナイトリー」
「…やぁセブルス、仕事かい」
セブルス・スネイプが名前の自室を訪ねるときは、決まって不機嫌そうな顔をしている。この日は、いつもの倍、不機嫌そうなオーラがあふれ出ており、名前はまた生徒が何かやらかしたのだろうか、と思った。だが、思いもよらない一言に、名前は暫く硬直する。
「…校長からの頼みで、君に復職を頼みたいそうだ」
「……私に、再びマグル学を…?だが、クィリナスがいるじゃないか」
クィリナスは現在1年間の武者修行とやらに出ているので、マグル学はチャリティ・バーベッジが臨時で担当をしている。来年結婚をするため、彼女は今年しかいられないと言っていたのをふと思い出した。
「クィレル教授は防衛術に就く、マグル学に穴が開いてしまうので、是非君に、と仰せつかった」
「そういう事なら…仕方ない、のかな」
防衛術も、確か教授が退職をすると言っていたっけ。相変わらず長く持たない科目だな、と内心苦笑する。
「念願の復職ですぞ、嬉しくないので?」
「いや…嬉しいよ、ただ…ほら、あまり外に出るのは苦手だから」
棚に並べられた赤い液体の詰まった袋を指さしながら苦笑すると、セブルスは眉間にしわを寄せる。本当に、これまでにない不機嫌さだ。何となく、私がマグル学に復職することが気に食わない、と見た。
「では、承諾という事で校長には伝えておこう…ナイトリー、間違えてもアレを飲み忘れないよう」
「……あぁ、心得ておくよ」
そもそも、アレを飲まないと喉が渇いて仕方がないからね。と笑いながら言うと、更に眉間にしわを寄せ、用件は以上だと吐き捨て部屋をそそくさと出て行ってしまった。出来る限り、この空間で、同じ空気を吸っていたくないのだろう。
出先からアルバスが帰ってきたら、早速校長室に呼び出された。新学期の事を話すのだろう、と思い向かうと、そこには明るく、おちゃめなダンブルドアではなく、どことなく重たい空気を纏わせたアルバス・ダンブルドアがいた。
「―――名前、とりあえず、ソファに腰かけなさい」
「はい」
多分、長い話になるだろう。名前は杖を一振りし、手慣れた動作でいつものように紅茶を淹れるとアルバスの机に置いた。
「ロンドンで人気の店から買ったスコーンがあるんじゃが、どうかね」
「ああ、モリッドの店ですね、あそこのパンはどれもおいしいですから…お言葉に甘えて、いただきます」
コーヒーテーブルの上に乗せられたスコーンを二つ取り出し、一つはアルバスの皿へ、もう一つは自分の皿へと置く。スコーンを齧ると、焼きたてなのか香ばしい香りと、しっとりした触感が口中に広がる。アールグレイにぴったりだ。
「して、名前……君は、あの日の事を覚えているだろう」
「あの日、とは」
「ほっほ、すまん、君とわしは随分と長生きをしておるようだから、あの日と言われてもどの日か見当がつかないね」
「そうですね…もう、自分の年齢も忘れちゃいましたけど」
「奇遇じゃのう、わしもだ」
はははは、と思いっきり笑う。年を重ねたものにしかわからないジョークである。そして、先ほどの談笑とはかけ離れた、ひどく、重たい話が語られる。
「ヴォルデモートが、生きておる」
「―――」
久しく聞くその名に、ガシャン、と手元のカップが地面に落ち、割れる。ローブがぬれてしまったことも、カップが割れてしまったことも、どうでもよくなる程、名前はその一言で心をかき乱された。
世を恐怖のどん底へと貶めていた男、ヴォルデモート、こと、例のあの人は1981年、10月31日に突然の失踪を遂げた。当時、名前はホグワーツに閉じこもり、あの者から逃亡する際に受けた傷を癒している最中だった。
誰かの悲鳴が聞こえたような気がした。気のせいだろうか、と思い未だに癒えぬ、腹の傷に薬を塗っているとそれの痛みとは異なる激痛に襲われる。あの子が、再び何か恐ろしい事をしたのか。今度は、確かに名前の頭に響きわたってきた。あの子の、恐ろしい唸り声が。
恐る恐る自身の胸を見るとそこにあった印がぐる、ぐると蜷局を巻き始め肌に吸い込まれるかのようにして消えていくではないか。それは、ヴォルデモートが失脚した証だった。
「ポッターと言えば…あの、やんちゃ坊主…か」
「名前、貴方も世話を焼いた、あの子ですよ」
「……」
「リリーも…可哀相に、けれども、あの子は無事でよかった…」
「リリー…そうか、そういえば、あの二人結婚をしていたね」
2人は、直接的な教え子ではなかったが間接的に元々知っていた。リリーは成績優秀のマグル出身者であるとスラグホーンに紹介されたからだ。ジェームズは夜間、寮を抜け出して何度減点をしたか数えきれない。滅多に本来の姿で生徒と遭遇することが無かった当時ではあったが、そのように異例の生徒も何名か存在する。ルシウス・マルフォイもその一人だ。彼の場合は、直接何か減点を食らうような事をしていたわけではないが、名前の事を誰かさんの命令で嗅ぎまわっていたのだ。
そして、リリーとジェームズには生まれて間もない、ハリーという一人息子がいた。生まれて間もないのに、そんな宿命を背負わされているなんて。名前は新聞を畳み、コーヒーを一口飲む。昨夜の衝撃から、眠れずにいるのだ。
「これから一仕事だわ…あの子を預ける家族が、どんな人たちか見ておかなくてはなりませんからね」
「お願いします、ミネルバ…私は、いつものようにホグワーツを守っていますので」
「ええ、頼みましたよ」
ホグワーツを守る、と言っても負傷した今では大して役に立たないかもしれない。建前でも、有事の際動ける教員が一人でも待機している、というのがとても重要なのだ。近頃は情勢が情勢だったので、校長のアルバス・ダンブルドアですら殆ど城を空けており、それの穴埋めに臨時講師として変装した名前が出来る限り授業を行ってきた。
あの時が、懐かしいな。と、あの日の事を思い出しながら、名前は気持ちを落ち着かせるため割れたカップを魔法でもとに戻し、紅茶をぐびり、と飲み干す。
「あれで、すべてが終わっていると、思っていたのですが…」
「だが、奴が完全に消滅した姿を誰も確認しておらん」
「……ですが」
「あの者の、学生時代を知る数少ない君だからこそ、伝えておかねば、と思ったのじゃ」
「…」
「わしは、ハリーが平和に学生時代を過ごせるとは思っておらん、何か、ハリーの身に何かが起こるやもしれん……」
「死喰い人が、ハリーを、狙う、とか…ですか」
「それもありうるじゃろう、何しろ、あの者はハリーに相当な恨みを持っているはずじゃからのう……どんな手段で生き延びているかは分からん、だが、わしは、あの者はあれだけでは死なん、と思っておる、この間、ハリーの入学書を書いているとき、そう確信した」
アルバスなりに、終わった後もずっと考えて、調べ続けていたのだ。本当に、ヴォルデモートが消滅したのか、を。
「そして、君も同じく狙われるじゃろう」
「……です、よね」
「君の力は、今のあの男にとっては最も渇望するものだからのう、でなくとも…名前、君はあの者にとって特別じゃ…、わかるね」
その言葉に、名前は目を見開く。呼吸をするのも忘れてしまいそうになるぐらい、うまく言葉が出てこなかった。
「―――」
「あの者の学生時代、君に向けていた視線は異常じゃったからのう…あの者は、気付いていない様子だったが…勿論、あの子はうまくそれを隠しておったと思う、だが、わしには隠し切れなかったようじゃ……」
人の心の変化に敏感なアルバスが、それに気づかないはずが無いのだ。今まで黙ってはいたが。だが、果してアルバスはどこまでわかっているのだろうか。流石に重要なところは分からないはずだ。今、ここで言えるようであれば教えてほしい、というアルバスの視線に名前は顔をうつむかせる。
事態が事態であったとしても、まだ、これを言うには勇気が足りない。これを言ってしまえば、認めてしまうことになるからだ。それに、アルバスに余計な迷惑をかけてしまう。これ以上、彼に迷惑はかけられない。ただでさえ居場所を作ってくれた、命の恩人だというのに。
思い出される、あの子の学生時代に名前はさらに気持ちを落ち着かせよう、とスコーンにかぶりつく。上品な食べ方なんて気にしていられない。スコーンを胃の中へ詰め込み、ごく、ごくと紅茶を飲み干す。
「アルバス、私は、自分の過去の過ちを、ずっと、どうすればよいか考えています、いつか必ず、その日が来たら、貴方に一番最初にお伝えします、だからどうか…ほんの少しだけ、お時間を、ください」
「……あぁ、君の記憶が頼りとなる、ハリーが生き残るため、よろしく頼む」
「…それまでに、覚悟を決めます」
スコーンのお礼を述べると、名前は静かに自室へと帰って行った。まるで、真実から目を背けるかのように。
逃げても、仕方のない事なのにね。美しいほどの赤い瞳でクツクツと笑う、あの子の声が蘇る。すべては、あの日。
ああだから君のそれは、愛なんかじゃ、ないんだ。と、名前は部屋で独り言つ。