42 愛憎ロマンス/アズカバンの囚人

シリウス・ブラックがホグワーツに侵入した日から、教師たちは毎晩交代で城を見回っていた。名前はディメンターの件もあり、基本的に毎晩見回っているが今日は少し早めに切り上げることとなっている。アルバスに用事があると言われているからだ。森の入口で見回りを終えた名前は、セストラルに別れを告げるとそのまま校長室へ向かうと、なんとなく空気の重たさを感じた。部屋の真ん中で佇んでいる彼に驚き、少し挨拶が遅れてしまった。

「…アルバスどうしましたか?」
「おお、すまんな忙しいところ」

すると、アルバスは鍵のかかった大きな木箱の中から、布がぐるぐる巻にされている小さな箱を取り出した。見るからにして魔法が何重にもかけられたそれからは、どういうわけだか少し懐かしいものを感じる。

「これは一体?」
「君に渡さなければならないものだ、いいや、君にしか託せないものと言ったほうが良いだろう」

一体なんだろう、と箱に視線を戻すとアルバスは杖を振り、小さな箱に巻き付いている布のようなものを解いた。ルーン文字が浮かび上がっているその布は、箱から離れるとただの真っ白い布切れに変わり、シュルシュルと音を立てて床に落ち、あっという間に燃え尽きてしまった。すると、真っ白な日記帳が姿を表す。そして、白い日記帳が名前の手のひらにストンと落ちた。

「アルバス……これは、日記帳ですか?」
「そうだよ、しかもただの日記帳ではない……トムの記憶の一部が入っておる」

その名に、名前は戦慄する。分霊箱の日記帳はハリーが破壊したはずではなかっただろうか。去年の出来事を思い出し、手が震えた。それでもアルバスは容赦なく言葉を続ける。喉が乾き、上手く返事もできない。

「これは、ジニーを操っていた悪の化身が封印されていた物と、同時に造られたものだよ」

一体なぜこんな代物をアルバスが持っていたのか。そんなことを考える余裕などなく、名前はただただ彼の言葉を待った。

「そして、これは分霊箱ではないーーーこの中には分霊箱足りうる魂は入っておらん、あの男が目的を達成させるために、”不要”となったものがここに入れられておる」

おそらくその感情を閉じ込めねば、あの分霊箱は完成しなかったのだろう。アルバスは冷たい声色で続ける。

「あの男にとって不要なものは、我々にとっては必要なものだ」

これを、秘密の部屋の事件で暴れていたあちらのトムが消滅してから渡そうと決めていた。本来ならば分霊箱が完成した時破棄する予定だったらしいが、閉じ込められた”記憶自身”が消されることを恐れて、彼の手元から姿を消した。そして、彼がホグワーツを卒業して何十年の年月を経て、ホグワーツのとある部屋から発見されたという訳だ。

「ーーー一体、何を……」
「これを上手に使いなさい……そして、これであの男とも決着が付けられる……故にそれを君に託した、君を信じている」

アルバスにとって、これこそがハリーを守る手段であり、全てを終わらせる鍵だった。去年までは分霊箱が暴れていたためこの日記帳を取り出すことができなかったが、あれが破壊された今、ようやく渡すことができた。全てを順調に終わらせるには、これの存在が必要不可欠だ。彼ならば、”この中に閉じ込められている者”を”上手に利用”することができるだろう。たとえ、それで名前が傷つこうとも、彼にはどうしても犠牲になってもらう手段しか残されていない。そんなアルバスの意図に気づくはずもなく、名前は震える手で日記帳を受け取った。

「これをどう扱うか……君ならばすぐに分かる」

大丈夫、恐れることはない。君を襲ったあの分霊箱の中の記憶とは違う者だ。そう言いながら、アルバスは名前の肩を優しく叩いた。

「また落ち着いたときにでも話をしよう」
「いえ……では、また明日」
「ご苦労さま」

刹那、アルバスの瞳を見てしまい凍りつく。ああ、これは昔見たことがある。彼が己の敵に向ける時の視線だ。アルバス・ダンブルドアは、敵に対して容赦しない。だから、何度か彼の敵でなくてよかったと感じたことがある。
そして、校長室を出た後も、名前はしばらく体の震えが止まらなかった。去年の忌々しい記憶がフラッシュバックし、肩を掻き抱く。ついに過去と向き合わなければならない日がやってきてしまった。

部屋に戻ると、とりあえず視界にそれを入れないようにするために部屋の隅にある本の山にそれをのせた。茶色い背表紙の本が多い中、真っ白いそれはとても目立っていた。いや、失敗だ、これでは逆効果だ。これをどこに置くべきか……そう思った時、あの部屋のことを思い出した。今では生徒の立ち入りを禁止している、名前と、トムの思い出の場所だ。
マグル学の教室がある廊下を曲がった先にある小さな扉の先には、こじんまりとした書斎がある。ここはかつてマグル学の生徒たちが自習するために使っていた小部屋で、ここ何十年と封印していた場所でもある。思い出に蓋をした名前にとって、ここに来ることはとてもつらいことだった。だが、もうここにしかこれを置くことはできないだろう。鍵が開いたのを確認すると、木の扉をギイと押す。

思い出の詰まったこの部屋は、防虫呪文をかけてあるので本は当時の状態から変わらずだった。しかし、部屋の埃っぽさだけはどうにもならない。今はほぼ魔法を使えない体なので、埃っぽさを我慢しながら奥に進む。

そう、ここは……。
足を止めた棚は、よくトムがここで寄りかかって眠っていた場所だった。閉じ込めていた記憶が蘇り、胸が苦しくなる。そして無意識の内に、彼の名を呟いていた。

「先生」

背後から、聞こえるはずのない声が聞こえてくる。きっと、きっと夢を見ているんだ。逃げ出そうとするが、”なにか”に腕を掴まれた。そしてーーー背後から強く抱きしめられる。

「会いたかった……名前先生……」
「あ……トムーーー」

あの凶暴だったトムからは想像もできないほど、優しく、切ない声色をしていた。絞り出すようにして出されたその儚い声に、名前は瞳を見開く。ふと、懐かしい匂いを感じた。その瞬間、彼との思い出が鮮明に蘇る。ああ、閉じ込めていた記憶があふれてくる。眼球の裏側が焼けるように熱くなり、無意識の内に涙がこぼれた。

「本当に……君なのか?」
「ドジな先生をいつも心配していた僕は一体誰だっていうんですか?」

懐かしい声に、ずっと聞きたかったその声に、名前は怖気づく。
ヴォルデモート卿が捨てた記憶は、名前がかつて愛していたトム・マールヴォロ・リドルだった。胸に広がるこの感情を必死に抑えようとするが、身体は素直で彼に身を任せていた。たとえ、彼が肉体を持たないただの記憶だったとしても、彼と再びこうして出会える事ができるなんて……。

「”別の僕”は随分と、先生に酷いことをしたみたいだ」
「……!な、なぜ」
「先生をみればわかったよ……許せないな…先生を傷つけるなんて」

ぎゅうと彼の腕に力が入るのがわかる。強く、強く抱きしめられた。彼の声は震えていて、とても怒っているようだ。恐らくこの姿のトムは16歳、5年生の時のものだろう。トムが自分に対して”そういう感情”を向けるようになった年齢だったのですぐにわかった。

「僕はもう、先生以外はいらない」
「……トム」

先程まで抱いていた恐怖はふわりと消え、積もりに積もった愛しさが胸にこみ上げてくる。

「ごめんね……先生、辛かったよね、もう大丈夫、先生は僕が守る」

こぼれ落ちてくる涙をトムが唇で優しく啄んだ。
想いと、思い出が涙と一緒に溢れて、止まらない。アルバスに言われたことなんてすっかり頭からなくなってしまう。優しく触れるような口づけに、名前は身を委ねる。

そして、彼の触れる場所から熱を感じ、忘れていた彼への想いが爆発する。たとえこれが記憶だったとしても、夢だったとしても構わない。トムを抱きしめ返し、嗚咽を漏らす。

「僕は……幸せ者だな……こうして、先生を抱きしめる事ができるなんて」

”彼奴等”は愚か者さ。ずっと求めてた先生を自ら手放して、そして、深く傷つけた。トムは吐き捨てるように言う。しかし、おかげでこうして名前と再会することができた。ずっと夢に見ていたことだ。震える指先で、名前はトムの頬にそっと触れる。そして、その手を左手で優しく包み込み、トムは自らの頬に名前の手のひらをあてた。まるで手のひらのぬくもりを確かめているかのように。

「やっと……僕は本当の夢を叶えたんだ」
「ーーー君の、夢?」
「そう、先生を愛すること……」

ふわり、と優しい口づけが落ちてくる。目を閉じて彼からの愛に浸っていると、あることに気がついた。彼が、魔力を自分から吸い取ろうとしていないことに。

この白い日記帳のトムは、あのトム・マールヴォロ・リドルとは異なる性質であることは一目瞭然だった。あのトムならば、こんなチャンス逃すはずがない。別のトムによって死ぬギリギリまで魔力を奪われ、瀕死だった名前だが今はある程度までは魔力を回復することができた。だが、魔法生物でもある名前の肉体を動かしているのは魔力なので、魔力の枯渇は命に関わる。少なくとも今年いっぱいは魔法を極力使わないほうが良いだろう。

「君は……未来の君は……いや、”君”を捨て去ったヴォルデモートは多くの人を恐怖に陥れ…命を奪った、たとえ”君”じゃなかったとしてもーーーそれは」

このトムが、名前が愛したこのときのトムが悪さをしていなかったとしても、彼の存在は許されるべきでは無いのかもしれない。アルバスは、彼を真に消滅させるために白い日記帳を自分に託したのだろうか。アルバスの意図を測りきれず、言い淀んでいると感情の読めない声でトムが口をはさむ。

「許されないこと、だね?僕はあいつらとは違うけれど、あいつらと同じ魂でもある……だから、あいつらの気持ち、わからないこともないんだ」
「それは…」
「あいつらは、くだらないこの世界を自分が望む”あるべき形”にしようとしただけ」

自分が混血であることの劣等感や己の不幸な出自が重なり、それが純血思想につながっただけ。単純に、生きる理由が欲しかっただけかもしれない。かつてのトム・マールヴォロ・リドルは己の道を探している時、ある答えにたどり着いた。その答えが真理であるならば、この感情は不要のものーーー。そして、ヴォルデモートとなった彼は最初の分霊箱を作った際に”不要なもの”を白い日記帳に封じ込めた。

「でも”僕”にとってはどうでもいいこと……自分が興味を持っていること以外、どうでもいいんだ」

そう言いながら、トムは名前の少し汗ばんだ手の甲にキスを落とす。

「あの狸爺に僕の媒体が拾われたときはどうしようかと思ったけど、まさか先生に渡すなんて……人でなしだよね」
「どういう……」

このトムは気がついていた。アルバス・ダンブルドアの思惑を。なぜ名前に媒体を手渡し、出会わせたか。本当に末恐ろしい男だと敵ながらトムは思う。

「僕と先生の関係をわかっていて、僕らを再び会わせたんだーーー先生は、あの狸爺に利用されてるんだよ」
「そんなことは!」
「でもいいよ、僕を”利用”して……先生と一緒に居られるのであれば、それでも構わない、僕が”つくられた”意味はきっとそこにあるんだ」

どうせ、こんなからだではアルバス・ダンブルドアに太刀打ちなんてできないし、そんな面倒なことやろうとも思わない。名前・ナイトリーという男が手に入るのならば、アルバス・ダンブルドアの思惑に乗ってやらないこともない。その代わり、あの狸爺は名前・ナイトリーに安全な場所を提供し続けるだろう。その時が来るまでは。

「トム……私は、君に」

言わなければならないことがある。そう言おうとしたが、人差し指を当てられ言葉が詰まる。

「僕から言わせてーーー先生を、名前先生をずっと愛している…これからも、ずっと……」
「私もーーー君を、愛しているよ」

伝えられなかった思いがようやく言葉にできた。
生徒と教師……立場上、禁断の関係でもあったし、人ならざる者として誰かに愛を告げる勇気、そんなものはあの当時の自分は持っていなかった。早く愛を伝えていれば、彼はあそこまで闇に落ちなかったのではないだろうか。そう考えたこともある。自分に勇気があれば…あのとき、伝えていれば……。だが、過ぎた事はどうすることもできない。それでも、名前は自分の真の気持ちを彼に伝える事によって、救われたような気がした。

「嬉しい…僕、人生で一番幸せだーーー」

記憶の断片でしかない僕が、本当の幸せを手に入れるなんて、ね。トムはひとり自嘲する。
名前を再び強く抱きしめながら。