26 愛憎ロマンス/秘密の部屋

理事会の封筒をサイドテーブルに置いたその時、名前は凍り付くような寒気を背筋に感じ戦慄する。

『来い…切り裂いてやる…』

不気味な声が聞こえてくる。恐ろしいその声に、がたがたと震えが止まらない。逃げなくては、と名前は無意識のうちに部屋の出口へ向かおうとしたが、何かが胸を貫き、冷たい床に倒れ込んでしまった。倒れ込んだ衝撃で机の上に置いてあったゴブレッドが倒れ、水が床に広がる。冷たい水を左頬に感じながら、朦朧とする意識の中、名前は懐かしいあの声を耳にした。もう、何十年と聞いていなかったあの声を―――。

「大人しくしているんだよ」

ありえないことだ、そんな事…どうしてこの部屋で…。呼吸も乱れ、震えも止まらない。ぐしゃり、と誰かに肩を踏まれているのか腕が上手く上がらなかった。そして、無理やり仰向けにされたかと思えば突然視界を何かで奪われ、髪を思いっきり掴まれる痛みを感じた。

「――――ッ」

不思議な事に、声が出ない…と言うより、声を奪われているようだった。何者かの息遣いを耳元で感じた時には既に遅く、次の瞬間、唇を奪われる。口の中を乱暴に暴かれ、組み敷かれ、ざらざらとした舌がねっとりと名前の舌を絡めとって離さない。

「――――ッ、っ!」

だらしない嬌声を漏らしているはずなのに、部屋にはぴちゃぴちゃといやらしい音が響くだけ。もはや、今の名前に正常な判断能力はなく、ただ熱い舌を受け入れるしかできなかった。魔力が次々と奪われる虚脱感を感じながら時が過ぎる。暫くして魔力を奪っている存在からの口づけからはようやく解放されたが、その存在は次に名前のローブをめくりあげ、シャツを乱暴に引き裂いた。ビリリ、と生地の裂ける音にびくりと肩を揺らすと、その存在がクツクツと笑うのを感じた。冷たい手のひらが胸に触れると、そこからとんでもない痛みが走り、名前はまるで陸に打ち上げられた魚のように暴れるが、その存在によって強く縛り上げられ自由を奪われる。強く床に頭を打ち付けてしまったのか、額からは血が滲み出てきた。頬を伝う血を、ざらざらとした舌が撫でると無意識のうちに喉が引くつく。

「あなたが誰のものか、忘れてはいないよね―――ああ、でも、今は忘れて貰おうか、まだ、早すぎるからね―――」

この声は、よく覚えている。悪戯を楽しんでいる子供のような声色で話しかけてくる、この存在は……間違いなく、――――だ。
しかし、次の瞬間、鋭い閃光が名前の頭を貫き、だらりと力の抜けた身体が冷たい床に転がる。そして…翌朝、名前はソファの上で目が覚めた。不思議と昨晩の事はホットワインをたらふく飲んだこと以外覚えておらず、この頭の痛さと気怠さは二日酔いなのだろう、と自己解決した。
ふと、シャツが裂けていることに気が付き、もしかして酔っぱらいながらシャツを脱ごうとして裂いてしまったのだろうか、と考える。ついでに腹部には青あざが出来ており、酔っぱらって胸を地面に打ち付けてしまった事にも気が付いた。本当に情けない。床には水がぶちまけられており、名前は短く唸り声をあげ、頭を抱える。なんてことだ、眠れないからと酒を飲んだまではいいが、こんなに翌朝調子が悪いのなら飲まないほうがまだマシだったのではないだろうか。いい年して情けない、と1人ため息を漏らす。

それから時が流れ、季節は10月…ホグワーツでは風邪が流行っており、マダムは日々忙しそうに元気爆発薬を煎じている。元気爆発薬は飲むと数時間は耳から煙を出し続けることになるので、この時期はあちこちで煙を上げている生徒が目に入るようになった。あの煙、本当にどうにかならないだろうか…長年思ってはいたが。名前も何度か元気爆発薬を試したが、相変わらず寝不足で体は気怠い。この頃になると寝不足に慣れてしまったが、目の下の隈は生徒が心配するので魔法のクリームで隠さなければならなかった。毎日化粧をしている女性は本当にすごいと思う。ちなみに、一部の男子生徒の間では、私がギルデロイ・ロックハートに長々と自慢話を聞かされ続け、くたびれているのではないだろうかと言われているらしい。まぁ、確かにギルデロイのトークには疲労感を感じれずにはいられなかったが、ここまで酷いのは初めてだった。

ハロウィンの朝、名前は酷い高熱を出した為にハロウィンを楽しむどころではなくなってしまった。熱で意識がぼんやりとする中、マダムが持ってきてくれた水を口に運ぶ。カボチャスープを楽しみにしていたのに、なんという事だろう。授業が無いのが幸いだったが、ハロウィン特有の高揚感を一切楽しめないのが虚しい。
熱が下がり、立ち上がれるようになったのは夜になってからで、朝から水しか口にしていなかったが、胃腸の調子が悪いのかまったく空腹感は無い。しかし、流石にあれだけは飲まなくては…とふらふらしながらも棚から赤い液体の入ったボトルを取り出し、それをマグカップに注ぐ。

「ははは…今年は運が悪いなぁ…」

ベッドに腰をかけながらいつものように赤い液体をちびちびと飲んでいると、突然扉がノックされた。

「どうぞ」
「夜分遅くすまないね、体調はどうだね」
「お蔭様でだいぶ楽になりました、マダムには頭が上がりませんね」

やってきたのは、分厚い本を数冊抱えているアルバスだった。部屋に入るなり、名前に一冊の雑誌を手渡してきたアルバスに、名前は首を傾げる。

「この雑誌は…”週間癒しのアロマ”?」
「最近あまり眠れていないようじゃからの…マグル界から取り寄せたんじゃよ」

どうやら、アルバスは最近名前がなかなか熟睡できていないことをわかっていたようで、マグル界からわざわざアロマ関係の雑誌を取り寄せてくれたようだ。しかも安眠特集というまさに名前が今欲しているもので、アルバスには深く感謝をした。

「ありがとうアルバス、早速読ませていただくよ」
「ホッホッホ、気に入ってくれて何よりじゃよ、だが、無理は禁物だよ名前、君も年なんだから」
「えぇ、肝に銘じておきます」

そこそこの年寄りなので、無理をしていないつもりでもやはり体力には限界があるのだろうな。年寄り同士のジョークで笑い合い、そして笑顔のままアルバスは部屋を後にした。彼が去った後、名前は赤い液体を飲み干し、ベッドで横になっていた。熱が下がったと思いきや再び高熱が出たためだ。うとうとと天井を眺めていると、突然睡魔が襲い、意識を失うようにして名前は瞼を閉じた。実はこの後、ホグワーツの3階でミセス・ノリスが石化された状態で見つかる大事件が起きていた。しかしながら、名前は意識を失うようにして眠っていたので、その事実を知ったのは翌朝になってからだった。
朝になり、事件をアルバスに知らされた名前は、事件の起きた3階の廊下をサンドウィッチ片手にじっと眺めていた。まさか自分が眠りこけている間にそんな恐ろしい事が起きているとは。ミセスノリスが石化していた付近の壁には『秘密の部屋は開かれたり、継承者の敵よ、気をつけよ』と薄気味悪い血文字が書かれている。アーガスががんばってミセス・ゴシゴシの魔法万能汚れ落としで壁をこすってはいるが、一向に血文字が落ちる気配はない。秘密の部屋、という単語に嫌な予感が胸をよぎった。昔にも、一度、こんな事があった…確かその時は、マグル生まれの生徒が1人亡くなっていて―――――――。

「うっ……なんだろう…頭痛が酷い…なんだか、とても大切なことを忘れているような気がするような……うーん…」

校長室にある憂いの篩はとても便利な魔法道具だ。記憶をその中にしまっておけるだけではなく、いつでもその記憶を映像として見る事が出来る。しかし、それはヒトだけが記憶を蓄積できる魔法道具なので、人ならざる者である名前には使えない魔法道具でもある。
どうして思い出せないのかがわからないが、思い出そうとすると頭の血管が脈打つのを感じる。そして考える事が嫌になるぐらい頭がずきずきとした。紅茶でも飲めば少しは落ち着いて考えられるようになるだろうか。

「……彼に久しぶりに会いにでも行こうかな」

彼とは、かつて学生時代のルビウスが昔、秘密の部屋事件当初に部屋に持ち込んでいたアクロマンチュラだ。当時、犯人が見つからず、結果、持ち込まれたアクロマンチュラが殺したという事になり、ルビウスは杖を折られそれ以来魔法を使う事が禁じられ、ホグワーツを退学する事となってしまった。
ちなみにアクロマンチュラは人並みの知能を持ち、人の言葉を話せる。見た目はハエ取りグモを巨大化させたかのような姿をしている。彼らが分泌する毒は非常に貴重なもので、半リットルで100ガリオンにもなるそうだ。本来はボルネオ島のジャングルに住んでおり、ドーム型の巣を作りそこで1度に100個ほどの卵を産む。卵は6~8週間ほどで孵化し、他の蜘蛛同様メスのほうが身体が大きい。その卵は、魔法生物管理部の取引禁止項目Aクラスに指定されており、現在では実験飼育禁止となっている。
そんな危険なものをホグワーツに持ち込んだルビウスに罪が無いとは言い切れないが、アラゴグはルビウスに心を開いており、人間を襲うような蜘蛛ではない。だが、当時、名前はルビウスとアラゴグの無実を説得することができなかった。確か…アラゴグを見つけたのは……。

「…やっぱり、紅茶を飲んで気分を落ち着かせよう……」

落ち着いたら、少し頭を整理して考えよう。名前は再び自室へと戻っていった。