20 愛憎ロマンス/賢者の石

彼を説得だなんて、現実はそう簡単にはいかない。学年末試験が終わったその晩、名前はクィリナスの私室へ来ていた。あの日から、何度かクィリナスとコンタクトを取ろうとしたが、試験を理由でうまくかわされてしまった為だ。もう試験をいい訳に自分から逃げる事もできないだろう、と。そう思い、生徒が近くを歩いていない事を確認すると、無理やり扉を開き、クィリナスの部屋へ突入した。部屋に入ると、部屋の片隅にあるソファに腰を下ろし、待っていたと言わんばかりの笑みを浮かべたクィリナスが目に入る。

「待っていましたよ、名前」

今夜、来ると。クツクツと笑うクィリナスは、もはや生徒たちの知る心優しきクィリナス・クィレルではなかった。ここまで、彼を狂わせてしまったあの男が憎い。

「セブルスからは、何度も忠告を聞いているだろうから、私の口からはあえて言わないでおくよ、クィリナス」
「あぁ、あの日が懐かしいな、名前、君は、実に無防備だった」

クィリナスの口から語られた、あの晩の出来事に耳をふさぎたくなったが、ここで逃げる訳にはいかない。セブルス・スネイプだって立ち向かっているのだ、ならば、自分だって。名前は意を決して、彼の言葉を遮る。

「クィリナス、君はあの子から離れるべき人間だ」
「…あの子、とは…クックック、流石は名前・ナイトリー、あの方を、あの子呼ばわりとは」
「私から魔力を、力を吸った事は気が付いていたよ、私が何で、何故膨大な魔力を有しているのか、それを知っているのは一部の者だけだったが、それの利用方法を知っているのは、更に限られた人物だけ…それを絞っていけば、必然と君が、あの子と繋がりがある事ぐらいわかったさ」
「ならば、何故直ぐにアルバス・ダンブルドアに忠告をしなかった?」
「アルバスは気が付いていたよ、この一年間で…アルバスは、君をどうするべきか、判断を悩んでいた」
「そうでしょうねぇ、何しろ、あのアルバス・ダンブルドアだ…わたしの異変に気が付かないはずが無い」

しかし、そのダンブルドアは今夜、ホグワーツにはいない!声を高らかにして言うクィリナスの表情には狂喜すら滲んでいる。足が震え、呼吸が荒くなるのを感じる。だが、逃げる事は許されない。アルバスの言う通り、自分のなすべき事を、なすべき日がやってきたのだから。

「クィリナス、君の言葉次第では、君をあの子から救い出す事が出来る」
「…クックック、そんなウソには騙されないぞ…!」
「まだ、君は人生を選択することができる、私と共に生きるか、あの子に付き従い、死ぬかのどちらか」

その言葉に、クィリナスの瞳が一瞬揺れたような気がした。

「君が望むのならば、私は君と共にあろう、ただし、それはあの子と離れる事を意味している、まだ誰も手にかけていない今ならば、まだ間に合うんだ」

だからお願いクィリナス。ここまで言うと、流石のクィリナスも心に少し迷いが生まれたようだ。ゆらゆらと、彼の瞳が揺れる。まるで、彼の心情を現しているかのように。しかし、すぐにそれは真っ直ぐと名前の赤い瞳を射抜く。

「アラクネの魔力を使い、わたしを誑かそうとしているのか!」
「いいや違う、君は既に、あの子に誑かされたのだ」
「違う、あの方は違う…貴方とは違う…たとえ、ただの捨て駒だったとしても…あの方はわたしを見て下さる!本当のわたしを!」

学生時代、優等生を演じて生きてきたクィリナスにとって、似たような人生を歩んできたあの子に共感することは予想できた。だが、それだけではない。彼は今、あの子の狂気によって正気ではないのだ。

「クックック、名前、貴方こそ、選択の余地はない、あの方と深い繋がりのある貴方は、あの方から逃れる事はできないのだから」
「それはあの子が勝手に勘違いしている事さ」

杖をクィリナスに向け呪文を放つ。もう、駄目なのか。その名前の迷いがいけなかった。クィリナスが凄腕の魔法使いであることをすっかり忘れていた。呪文を使う腕ならば、名前よりもはるかに上、セブルス・スネイプですら容易に手を出せなかったほどだ。

「う―――ぐっ」

魔法で浮かされ、苦しみあえぐ名前を見つめながら恍惚の表情を浮かべるクィリナス。いいや、クィリナスというよりは、彼に乗り移ったヴォルデモート、と言った方が正しいだろう。

「貴方は貴重な生物だ、だからここで殺すわけにはいかない、しばし、ここで眠られよ」

そのまま思いっきり本棚にぶつけられ、強く頭を打った名前はあっという間に意識を手放す。魔法の打ち合いで負った傷の痛みすらどうでもよく感じるほどの衝撃が名前の肉体に走る。
それから20分程して目覚めた名前は、ずる、ずると折れた足を引きずりながら、名前は地下へ走る。もはや治療する時間すら惜しい。急がなくては、急がなくては、と焦る名前の心をよそに、進むたびに悲鳴を上げたくなるほどの痛みが体を走る。痛みで脂汗が滲み、魔法の打ち合いで負った傷口からぽた、ぽたと血が流れおちてくるのも気にせず名前は走り続ける。途中、何故か意識を失っているグリフィンドールのロンとハーマイオニーを発見した。

「先生…!良かった!先生、助けてください!ハリーが中に!」
「ハーマイオニー…何故こんなところへ…!」
「ごめんなさい、でも、黙って見ていられなくて、スネイプが賢者の石を狙っているんです!だから、私たち、石を守ろうと…!」

やはり、ルビウスが漏らしてしまったか。彼らと仲が良かったので、なんとなく危惧はしていたが。口の軽い教え子に、名前は小さくため息を吐く。彼女たちはセブルスが賢者の石を狙っていると勘違いしているようだが、どうしてその考えにたどり着いたのだろうか。だが、今はそんな事を考えている暇はない。これが終わったら、ルビウスにきつく言っておかなければ。と、炎の中へ入ろうとしたとき、ハーマイオニーに腕を引っ張られた。

「先生…足が…!!それに傷だらけです…!一体誰が!」
「ちょっと転んでしまってね、大丈夫、これが終われば治療をするよ」
「でも…!」

見ているだけでも痛々しい程、名前の左足はおかしな方向へ曲がっていた。ハーマイオニーは眉間にしわを寄せ、意識を失っているロンの手を握る。

「大丈夫、それに、君は彼をすぐに医務室へ運ぶんだ、マダムがいらっしゃる、ついでに、マダムに最悪の事態に備えておいてほしい、と伝えておいてくれないか」
「…わ、わかりましたッ」

ハーマイオニーの声は、恐怖と動揺で震えている。そんな彼女を、名前はやさしく抱きしめ、安心させる。こんなに恐ろしい事を経験しているのだ、動揺しない子供はいない。大人だって、こんなに恐ろしい目に合えばこうなっていただろう。彼らは正真正銘、グリフィンドールの生徒だ。名前はそんな彼らがとても誇らしかった。

「いいね、すぐに、マダムの所へ行くんだよ」
「はいっ、ハリーを、お願いします…!」

任せてくれ、と言い残し、名前は単身炎の中へ歩き出す。もしもの時の為に用意してあった薬を飲んでいるので、この炎が名前を焼き尽くすことはない。

「―――ハリー…!」
「名前先生……」

ばたり、と足元から崩れ落ちるハリーを何とか魔法で浮かせ、衝撃から身を守る。クィリナスはかというと、まるで何かに焼かれたかのようにボロボロと肉体が崩れ落ちていく。

「クィリナス…君は、そちらを選んだんだね」
「……名前…わたしは…貴方を…」

指先がふれるか触れないかのところで、クィリナスは灰となって消えていった。何故、何故あのタイミングでそんな事を言うのだろうか。名前の胸は、張り裂けんばかりに痛む。クィリナスの気持ちは、理解していた。どういう感情を自分に向けていたのかなんて。彼があの時、名前に向けた感情こそが彼の本心であり、すべてだった。だから、あの時彼を受け入れていればよかった。逃げもせず、すべて、彼の愛を受け入れていれば。もしかしたら、彼が死ぬことは無かったのかもしれない。うおお、という恐ろしい呻き声を聞きながら、名前は身を構える。しかし、その呻き声は次第に小さくなり、それは逃げるかのように目の前から姿を消した。
過ぎた事は、どうにもならない。長年生きてきた中での教訓だ。どうなるにせよ、人生など人それぞれ。彼があんなことを言わなければ、そう、きっぱりと心に整理がついたというのに。
手のひらに微かに残っているクィリナスの灰を、ぎゅっと握りしめる。
こんなにも苦しい生が、いつまで続くのか。
クィリナスの死は、アルバスも想定していたそうだ。名前の手紙で慌てて戻ってきたアルバスだったが、名前からの報告を受け、彼の死に対してアルバスは随分と冷淡な反応だったと思う。アルバスの事をとやかく言えたような立場ではないが、それでも、名前の心は揺れ動いていた。
生が苦しみならば、死こそが安らぎ。どうしてこうも、死から程遠い場所にいるのだろうか。クィリナスの灰を埋葬しながら、先に死んでいった彼の家族の事を思う。彼の家族が生きていたら、あの出来事を、なんと感じただろうか。

「さようなら、クィリナス」