14 愛憎ロマンス/賢者の石

あれは、夢だったのだろう。朝目覚めた名前は、自身の身形が昨夜のままであることに気づき、レポートの採点をしていた最中眠ってしまったのだろうと自己解決する。あれは、悪い夢だ、何しろ記憶が曖昧なのだから。
ハロウィーンの夜になると、ホグワーツではいつもの食事に加えてパンプキンパイが並ぶのだ。それがまた飛びきり美味しく、名前はそれが昔から大好きだった。けれども、今日はあまりの気怠さに中々ベッドから起き上がる事が出来なかった。朝食は仕方なく部屋で済ませ、名前は軽くシャワーを浴び新しいシャツに袖を通す。ブラウンのベストを着ると、おろしたてのカシミアで出来たスラックスを履いて準備完了だ。この季節になると、広大な敷地をもつホグワーツの城は室内と言えどもとても寒い。濃いグレーのローブを羽織り、名前は生徒たちの待つマグル学の教室へ向かった。

「ナイトリー先生、なんだか元気なさそう」
「え?そうかなぁ…いつものナイトリー先生だと思うけれども…」
「ねえシエラ、あなたも思うでしょ?」
「えぇ…なんだか、辛そう」
「おいフレッド、お前わかるか?」
「いんや、全然」

黒板に近代魔法界と近代マグル界の違いを書いていると、後ろのほうから生徒たちのおしゃべりが聞こえてくる。書き写すように、と指示をしたのにおしゃべりをするとは。くるり、と振り返ると何か言われる、と気が付いた赤毛の双子とその友人たちは慌てたように羽ペンへ視線を戻す。
今日は先週出した課題の提出日でもあったので、授業が終わり生徒たちは名前の元へ仕上げた課題を提出し、次の授業へ向かうために教室を出て行く。課題を提出しても、勤勉なレイブンクロー生はよく教室に居残っていることがあったが、今日は珍しくグリフィンドール生が最後まで教室に残っていた。

「おや、どうしたんだい、何か分からない事でもあった?」
「…その、先生、今日、なんだか元気がなさそうだから、その、あたしたち、心配で…」

彼女の名は、シエラ・ブロウ。グリフィンドールの3年生で、名前の授業をいつも最前列で受けているとても勉強熱心な女子生徒だ。他にも、彼女の友人であるコニー・バレル、そしてフレッド・ウィーズリーにジョージ・ウィーズリーの4名がそこに居残っていた。
まさか、教え子にそんな心配をされるとは思ってもいなかったので、名前はつい苦笑してしまう。

「Ms.ブロウ、お心遣いありがとう、だが、私はいつものように元気だから、そう心配しなくとも大丈夫だよ」
「そう、ですか…そうでしたら、いいんですけれども、その、先生がちょっと痩せたように見えて」
「…私が?」

痩せただろうか、と頬に触れてみるが自分の事なのでよくわからない。ともあれ、生徒に心配をかけてしまっては、教師として失格だ。彼らには、これからの自分自身の為に勉強に励んでもらわなくてはならないのだから、余計な心配をかけさせないようにしなてくは。と、名前は生徒たちに向けいつものように微笑む。

「だから気のせいだってコニー。あ、先生、今度バスケットボールっていうマグルの遊びがしたいので授業に取り入れてください!」
「賛成!ボールは確か教室の奥の棚に入っていたと思うので、是非よろしくお願いします!」

赤毛の双子のお蔭で、何とか話題を逸らす事が出来た。ジョージ・ウィーズリーは教室奥の棚を指さしながら、興奮したように語るが、残念な事に彼の要望には当分応えられそうにない。今学んでいる箇所は、3年生に必ず教えなくてはならない事だったので、必然と黒板を書き写す時間が増えてしまう。彼らは、それが不満なのだろう。

「残念ながらしばらくはこの授業内容だよ、勿論来週も課題提出日があるから、忘れないようにね」
「なんだー…残念」
「行こうぜフレッド」

2人に連れられ、残りの女子生徒も教室を去っていくのを確認すると、名前は教室から通じる扉から自室へ向かった。痩せた、気はしない。だが、疲れているのは確かだ。こんな時、名前はたいてい魔力が安定していないので、簡単な魔法ですら失敗してしまう。マグル学教師である意味よかったと、この時は思った。
ハロウィーンの夜、名前は自室で一人パンプキンパイを食べていた。本当は大広間でほかの生徒たち同様、賑やかな食事を楽しむつもりでいた。年に一度の、ハロウィーンという大イベントだというのに体調の悪さから、名前は部屋で食事をとらざるを得なかったのだ。

「はぁ…眠くなってきた、な」

孤独なる夕食を終えると、名前はパジャマに着替えもせずそのままベッドにもぐりこむ。干したばかりの布団は気持ちが良い。

「…今日、か」

今日は、ポッター家が襲われ、あの子が消息を絶った日。そして、生き残った男の子は現在ホグワーツにいる。ハリーはどんな気持ちで、今日という夜を迎えているのだろうか。時計を見ると、針は午後7時に差し掛かろうとしていた。確か、この時間だ。あの知らせが来たのは。

「な、なんだ…急に、気持ち悪くなった…」

慌てて近くにあったバケツを取り出し、気持ち悪さを吐き出そうとするが胃から何かがせり上がってくる事はなかった。マダムからもらった胃薬を飲むが、一向に気持ち悪さは解消されない。ベッドの横で手をついていると、突然誰かが名前の部屋の扉を勢いよく開いた。一体何事だろうか、と振り向くとそこには額に汗を滲ませ息を切らし立っているミネルバの姿が目に入った。

「―――来てください、名前」
「ミネルバ、一体どうし…」

何をこんなにも慌てているのだろうか。緊迫した様子のミネルバを見つめる。

「トロールです、ホグワーツにトロールが侵入しました」
「…トロール…!?」

耳を疑った。トロールが何故、ホグワーツに。トロールなどという生き物が入ってこれる程ホグワーツの警備が手薄だとは思えない。だとしたら、何者かがトロールを侵入させた、という事になる。しかも、内部にいる誰かの、犯行。名前の頭に、ある人物の姿が浮かび上がる。だが、確証もないのに疑うのはとても失礼なことだ。すぐさまその姿を、頭の隅に追いやる。
トロールとは、巨大な体を持つ魔法生物で、単純故に凶暴で、近寄るだけであまりの悪臭に鼻がもげそうになるほど。ある程度魔法に対する耐性を持ち、それでいて身体はとても頑丈だ。弱点と言えば、少し出っ張った頭頂部だけだろうか。
いいや、弱点はまだあった。そのことをふと思い出したのは、1階への階段を駆け下りている時だ。ミネルバと共に現場に駆け付けてみると、2,3匹の巨大なトロールがホグワーツの廊下を破壊している最中だった。

「ミネルバ、ここは任せて」
「えぇ、そのつもりであなたを呼びましたから、この階に生徒がいないか、確認してきます」

そうか、彼女は知っていたのだ。走っていくミネルバの背を横目に、名前は苦笑する。ここへ来るまでに、ミネルバから聞いた話では4階のあの場所へはセブルスが向かい、他の階はアルバスが見回りをしているそうだ。全員が大広間に集まっている時間を狙い、トロールを操りホグワーツを混乱させ、その間に石を盗もうとする人物なんて、名前の知り合いでは一人しか思いつかなかった。だが、そこへはセブルスが向かったと聞く。彼はとても優秀な魔法使いだ、何とかなるだろう。
ふぅ、と息を吐き名前はゆっくり、ゆっくりと壁を破壊するトロールに近づく。トロールは暫く名前がやってきたことに気が付いていなかったが、あと2メートル、というところでようやく気が付いたのか、はっとした表情で此方を見つめてきた。

「―――ここは君たちが立ち入れる場所ではない、去れ」
「……!」

廊下の明かりに照らされ、名前の赤い瞳がぎらり、と冷たい色を滲ませる。襲い掛かってきたとき、今日に限って体調の悪い名前はいつものように魔法を使うことができないだろう。だから、その前に彼らに警告をしなければ。久しく本性をあらわにした名前は、無表情でトロールを見つめる。

「く、蜘蛛…アラクネだ…」
「わかっただろう、私が何であるのかを、いくら鈍感な君たちでも、この瞳を見ればわかるはずだ」
「……わかった、去る、ここを、去る」
「賢明な判断だ、それから、二度とここに近寄るな」
「…わかった、だから、睨まないでくれ、こわいんだ」

逃げるようにしてトロールたちが去ると、名前は重大な過ちに気が付く。そうだ、誰が彼らをここへ侵入させたのか、聞けばよかった。そうすれば、どのしもべが動いているのか対処できたはず。だが、もう遅い。頭を抱えながら名前は自分の失態に小さくため息を漏らす。そして、久しく耳にしたその名に、気分が滅入っていくのを感じた。

「……疲れた、な」

トロールたちが去り、一人になった名前はどっと来た疲れにより、廊下に座り込む。赤い瞳にはあの時の冷たさは既になく、黒に近い赤へと戻っていた。体は今までの疲労からか、暫く動く気すら起きない程。そこで暫く休憩をしていた名前だが、いつまでもこうしている訳にはいかない。と、トロールを片付けた事を知らせるために、アルバスの元へ向かった。そしてそこで、耳を疑うような事件を知らされる。

「ハーマイオニー・グレンジャーと、ロナルド・ウィーズリー、ハリー・ポッターの3人がトロールと対決、か…」
「運が良く、3人は無事でおるが…最悪の時代になるところだったよ」
「そうでしたか…ハーマイオニーはそんな事をするような少女には思えませんでしたが…」
「何、色々と事情があるのじゃよ、今回の事で、彼らは真の友を得たに違いない、わしは、彼らが無事でよかった、それでいいと考えておる」
「そう、ですね」

最悪の事態にならずに済んだのは、アルバスの言う通りただ運が良かっただけ。それでも、運とは人生の8割以上を左右するもので、運があるという事はそれだけでも素晴らしい事だ。大人ですら、トロールと単身で戦う事はとても危険なことでいかに勇敢だろうとも挑戦しないだろう。

「さて名前、君も十分疲れたじゃろうから、今夜はもう眠ると良いじゃろう、夜の見回りはわしが行うので安心なさい」

今夜は名前の当番日だったが、流石はアルバス。名前の変化に気づき、彼に休みを与えた。いつもならば無理をしてでもこなすだろうが、アルバスの有無をも言わせぬような圧力に負け、ついに名前は大人しく部屋で眠る事にした。
あんなに苛立っていたアルバスは、何十年ぶりだろうか。